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知識と創造性の関係 [その他いろいろ]

創造性とは何ぞやという議論をほうぼうで見かける。自分でもあれこれ考えてみることがある。まだ結論には全然至っていないのだが、いくつか思いついたことがある。

そもそも創造とはなにか?創造とは、僕が思うに、手持ちの知識の新しい組み合わせに他ならない。

たとえば、ニュートンは林檎が落ちるのを見て万有引力というものの存在をひらめいたというが、実際はそんな単純なものではない。いくらニュートンが天才だからといって、まったく「虚無」の脳、つまり知識面で空っぽの脳みそにいくら林檎を見せつけても万有引力の概念は出てこない。ニュートンは当時のヨーロッパにおける最高水準の天文学、物理学、数学の知識に触れることができる環境にいた。彼はそれらの知識を巧みに組み合わせることによって運動法則の萌芽となるような概念を既に頭の中に形成していた。林檎はそういった「既存知識の再構成」の最終段階を刺激したにすぎない。あるいは林檎の話の存在自体、どれほどの信憑性のあることなのかわからない。

つまり、創造とは多くの必然とわずかの偶然の産物といえる。

いや正確にいうと、創造が生じるためには前提条件というものが必要である。それはニュートンにとって紀元前から17世紀までにヨーロッパで蓄積された天文学や数学の知識の総体であった。前提条件を持つ人が、なんらかのきっかけを与えられたとき、はじめて創造が生じる。ワトソンとクリックがDNAの二重らせん構造を解明するためには、当時の最先端の生物学的知識および放射線による構造解析の技術が必要であった。無から有は生まれない。有は有どうしの組み合わせによって生まれる。

芸術や文学における創造性も同様であろう。モーツアルトの音楽は過去の音楽の蓄積の上に成り立っている。モーツアルトがいくら天才だからといって、音符も読めない人だったらあの音楽は作り得ない。モーツアルトの音楽は、過去の音楽家が残した遺産を、彼独自のやり方で組み合わせたに過ぎない。

では、前提条件がそろい、なんらかの偶然によってきっかけを与えられれば創造がおこるのか?答えはNOである。

17世紀のヨーロッパに存在していた数学者や物理学者はニュートン一人ではない。20世紀半ばにワトソン・クリック以外の生物学者は掃いて捨てるほどいた。では、ニュートンやクリックのみが、多くのライバルたちの中で、たまたまきっかけを与えられたに過ぎないのか?つまり彼らがその時代の最強の運の持ち主だったということか?

これも答えはNO

ここではじめて、昨今話題の「創造性」というものが出てくる。

ニュートン以外の物理学者も林檎が落下するのを見ていただろう。しかし、この林檎を既存の物理学や数学の知識に結びつけることができなかったのである。でもニュートンにはそれができた。当時ニュートンよりも博識な天文学者や数学者はいただろう、しかしニュートンはそれらの人よりも「知識どうしを結びつける力」が強かったということに他ならない。ただめくら滅法に結びつければよいというわけではない。「意味を持った結びつけ」でなければならない。

これは重要なポイントである。なんらかの創造なり新発見なりが、それと認知されるためには、その創造なり新発見なりが既存の知識の体系の組み込まれている必要がある。さもなければ誰もそれを理解できず、歴史の塵として抹殺されてしまうからだ。あまりに「新知識と既成知識との連携」が奇抜であったために、世間から理解されるまでに100年近くを要したガロワやラマヌジャンはその意味で「創造的すぎた」ために不幸であったといえる。モーツアルトが18世紀にパンク・ロックを作ることは不可能であったし、仮にそれができたとしても、それは創造性の結果とはみなされなかっただろう。

おっと、救急車が来たので、この続きは後日・・・・・

 

いま救命センターから戻ってきた。救急車が案外早く片付いたので、続きをば。さっきまで何書いてたんだっけ?そうそう、知識と創造性の関係ね。

つまり、創造性とは、異なる知識どうしの新しい組み合わせによって生じるわけだが、それは既存の知識体系との微妙なバランスの上に成り立っているのである。既存の知識体系から見て理解可能であり、かつ今まで誰も思いつかなかったような知識の連関、これこそがinnovationの本態である。

では、どうすれば創造性を磨くことができるのか?

創造性の本質に関する上記の分析を鑑みると、答えはおのづから出てくる。

1:既存の知識・技術の体系を身に着けること

2:それらを了解可能なレベルで結びつけて遊ぶこと

現在の学校教育では1しか行っていない。あまり教育が1に偏ると、創造性の芽は潰される。以前書いた「本を読みすぎることの功罪」もそのことと同じことを指し示しているといえる。博識だけど創造性のない人や、いわゆる批評家と呼ばれる人たちは、2が決定的に不足しているのだろう。

逆に、よく言われることだが、創造的な人には「遊び心」がある。これは上記のような理由によるものなのだろう。

創造性を「もって生まれた能力」として片付けてしまうのはよくない。創造性は教育と普段の習慣によって作られるのである。

ちょっと横道にそれるが、爆笑問題の太田というお笑いタレントがいる。僕はこの人に凄まじい創造性の芽を感じるのだ。あまり品のよいタレントではないのだが、この人のジョークは漫才のような事前に用意されたものではなく、いつも即興で、しかも誰も予想もしなかったような奇抜な知識の連関から成り立っている。ああいうジョークをいつも言えるようにトレーニングしておくことも、創造性を養うにはいいのかもしれない・・・・・かな?

 


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コメント 6

scot

jokeをもっと、日々の人生の友にしたいですね。
by scot (2006-04-13 09:57) 

しょちょう

おっしゃるとおりです。質の良いジョークをですね。
by しょちょう (2006-04-14 02:19) 

gutta

1は努力すれば何とかなりますが、問題は2なんですよね。それがないと研究者としてはもちろん、臨床家としても実はかなり痛いです。
by gutta (2006-04-14 23:23) 

しょちょう

ぐったさん
確かに臨床の現場でも2は非常に重要ですね。知識をたくさん持っているのに、それをうまく運用できない臨床家というのは2が足りないってことでしょうね。
by しょちょう (2006-04-15 06:53) 

どらとら

ガロワとラマヌジャン…。むううう。
by どらとら (2006-04-18 05:20) 

しょちょう

どらさん
ガロワとラマヌジャンに興味ありますか?藤原正彦の「天才の栄光と挫折」がいいですよ。すでにお持ちかもしれませんが。
by しょちょう (2006-04-18 07:42) 

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