不平等の再検討 [作品評論]
「平等」という言葉には魔力がある。「平等」であることはいいことだ、あらゆる社会は「平等」を目指さなくてはならない、一般にそう思われている。では、そもそも「平等」とは何なのか?「平等」と「不平等」は両立しうるのか?どういう「平等」を目指すべきなのか?こういった根本的な問いに答えようとするのがこの本
インド人のノーベル経済学賞受賞者であり、ケンブリッジ大学トリニティー・コレッジの学長でもあったアマルティア・センの代表作 「不平等の再検討」
1:社会のある側面に関して平等を追求すれば、他の側面において不平等を受け入れざるを得ない。例えば所得や資産での平等を求めるならば、権利や自由は規制され不平等となる。この世に存在するあらゆる政策理論は、それが重要だと見なしている何らかの事柄について平等を謳っており、その周辺にある重要ではない事柄については不平等を容認している。したがってそれらの理論は重点をおくポイントが異なっているだけで、等しく「平等の理論」と言えるし、同時に「不平等の理論」でもある。
2:不平等を分析するにあたって、お金や食料や健康といった特定の「基本財」の分布に注目する従来の経済理論には限界がある。人間には多様性があり、10の量を必要としている人と5の量を必要としている人に等しく5の量の基本財を与えることは、10を求めている人の自由を奪うことになる。したがって、こういった基本財に焦点をあてるのではなく、むしろ「潜在能力」がいかに平等に分布しているかに焦点をあてるべきである。センが言うところの「潜在能力」とは、その人が選択することができる基本財オプションの豊富さと言ってよい。「潜在能力」とは「自由」を反映した概念である。特定の基本財を平等に振り分けることよりも、各々の人が自分の必要に応じて基本財を選び取ることができる自由、この自由こそが平等に振り分けられるべき事柄であるとセンは主張している。
例えば、北朝鮮の飢餓の問題について考えてみる。あの国では国民が飢餓状態に陥っているとき、実は全国民を養うことが可能な程度の食料供給がなされているのである。飢餓の原因は、食料の絶対的な不足ではなく、一般国民の持つ「潜在能力」の低さ、つまり食料や健康といった基本財を必要に応じて取得する自由の欠如にある。一応社会主義なので、食料供給も医療供給も一見平等に行われているように見えるが、それは誰がどれだけ不足しているかを無視した供給であり、飢えたり病気したりしている人達にとっては全然平等ではないのである。その一方で、著しく潜在能力の高いごく小数の人達がいて、その人達は好きなだけ取ることができる。潜在能力において著しく不平等な国といえる。
イギリスにおける社会階級の問題も同様の視点から分析できる。なぜ社会階級が固定化するのか?中流階級と労働者階級との間の断絶は何に由来するのか?それは保有している財力の違いだけではない。むしろ「潜在能力」の違いに由来する。労働者階級の人たちは、労働者になるための「潜在能力」しか与えられてない。いかに英国政府が彼らのために学校をたくさん作り、よい仕事にありつけるための制度を作ったとしても、教育に価値を置かない彼らの文化や伝統が彼らの「選択能力=潜在能力」を著しく制限し、結局のところ、何世代にも渡って同じところに落ち着いてしまう結果になる。教育という基本財が社会に溢れていても、それを自分のものにするための自由(潜在能力)が欠落しているのである。
ということでこの本。かなり抽象的な概念を説明しているが、経済学の素人でも読めるようにかみ砕いて書かれており、好感が持てる。「平等」という語の裏に潜む意味を理解し、この語の持つ魔力に騙されないためにはどういう視点を持てばよいのかが繰り返し説明されており、結構おすすめです。
セン教授は2年位前にTrinityを去って、Havardに戻られちゃいました。
by 笛吹き (2006-04-14 03:35)
笛吹きさん
あらら、ケンブリッジとしては痛い喪失でしたね。母校よりもハーバードのほうがいいのでしょうかね?
by しょちょう (2006-04-14 09:33)
センの経済理論と、最近流行の「希望格差」社会論には、つながりがありますね。
つまるところ、階層社会の起点は、潜在能力格差の固定化ということでしょうか。
by shao113 (2006-04-16 21:42)
shao113さん
こんにちは。ようこそ。
まさに潜在能力格差の固定化ですね。社会に物的なモノが溢れている先進国社会では、格差を生むのはモノではなく、潜在能力ということなのでしょうね。
by しょちょう (2006-04-17 13:53)